東日本大震災の翌年、福島から静岡に変わった全日本少年サッカー大会に参加した。
その帰路にマイクロバスで宮城県石巻市まで行った。
当時、北九州市は全国に先駆けて、石巻のガレキの受け入れをしていたので、現地の状況を選手たちに見せたかった。
また、現地の人にとっては寄付や物資の援助もありがたいが、実際に来て宿泊や飲食などの買い物をして、お金を落とすことのほうが復興につながると聞いたので、石巻の旅館を予約した。
静岡を昼過ぎに出発し、東京スカイツリーや埼玉スタジアムを横目に石巻市内に着いたのは夜の10時過ぎになった。
石巻市の旅館では到着が遅くなったが、心のこもった夕食を提供され、大部屋で眠りについた。
全国大会では、ドームハウスに宿泊し、食事は毎回バイキング、試合会場まではシャトルバスで送迎という恵まれた環境で過ごした選手たちにとっては、少々不満があったかもしれないが、何事も経験である。
目が覚めて7時には朝食をとり、7時30分にはチェックアウトをすませて、津波の被害があった海岸へ向かった。
まず、驚かされたのは旅館には被害がなかったらしいのだが、旅館から数百m先からは、建物は何もなかった。
「津波が来たところと来ていないところでは、こんなにも差があるのか!」選手たちも同じように感じたと思う。
そして、バスは海岸線に近づくと山積みの廃車を横目にボコボコに穴の空いたアスファルトの道路を進んだ。
次に目に見えたのは、校舎全体が津波に漬り、3階の窓ガラスまでバリバリになった小学校の校舎。
バスを降りて、周辺を歩いていたら、中学校らしき場所に着いた。
グランドには置いてあったであろうサッカーゴールはなく、ガレキの山である。
ゴミが集まっているのでない。本当にゴミの山である。
これだけのゴミを一度に見たのは人生初かもしれない。
それくらい山になっていた。
30分程度の見学だったが、子どもたちの心にこの光景はしっかり焼きついたであろう。
当然、サッカーができる環境ではない。
普通にサッカーをして、学校や仕事に行き、不自由なく生活していている自分たちは何だろう?
そんな疑問にかられた。
宮城からの帰りは、関東での渋滞を避けるために、猪苗代湖を横目に福島、新潟、長野、富山、石川、福井、京都、大阪、兵庫、岡山、広島、山口を通り、北九州に到着した。
途中、富山の滑川市でパンクししたため、24時間かかり、運転手3人で交代しながら、何とか朝帰りついた。
その後、登校日で学校に行く選手もいた。
私も仕事に行った。
疲れたが、選手も大人も良い経験となった。
いつか、役に立って欲しいと願っている。
完全な復興には、まだ時間がかかるだろうが被害にあった方々は、苦難に負けずにずっと頑張りを続けている。